2012年2月8日水曜日

自分なりの答えを

内容は前回の記事の続きになります。某SNSでいくつか記事に対する反応をいただけたので、それに対する自分なりの答えを出してみました。どんなに小さくても、自分が書いたことに対して何かしら反応がくるのはうれしいものです。本当にありがとうございます。

まず回答というか、「これってこういうこと?」と聞かれたときにうまく答えられなかったので、それについてちょっと書きます。解釈といったほうがいいでしょうか。
記事の最後のほうで、「人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと」が不安の解消方法としてあるのではないか、というようなことを書きました。言い方によっては、「誰が何と言おうが自分が決めたことをこなす」ということになります。だけど、ここで「自分は100mが11秒台で走れる!誰が何と言っても走れる!」と考えて練習する、っていうのは、私の中では少し意味が違ってくるんですよね…。「練習をがんばっている自分」というのは、自信につながるかもしれません。技術的な話をしているわけではないので、その練習が有効かどうか、意味があるのかどうか、そのへんはこの際関係ないものとします。練習をすることより、練習している自分を自覚する・意識する・考える。この辺が「私は私だ」と思える瞬間ではないでしょうか。抽象的で分かりにくいですが、これが今私が出せる精一杯の答えですね…まだまだ考えが足りないです。


次に最後宙ぶらりんになってしまった「どうやったら自信をもつことができるのか」という話。これは完全に自分の経験に基づいて考えているので、異論はあるでしょうし納得できない面もあると思います。あくまでも「私はこう感じる」ということを書くので、そこはご承知ください。

上に書いた回答や、SNS内でやりとりをしていてなんとなく思ったのですが、私は「我思う、ゆえにわれあり」というデカルトの考えにとても共感しています。そもそもどういう考えかというと、

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。』(wikipediaより引用)

ということになります。とりあえず私は少なからずこの考えに基づいているという前提のもとで話を進めます。
まず、考えている「自分」は常に存在しているわけなので、それが他人に認められているかそうでないかは関係ないんです。つまり「自分」というのは、他人と比較しなければ認識できない、というものではない。もちろん周りと比較することで優劣がうまれ、好き嫌いがうまれ…という側面ももちろんあるので、他人と比較して認識される部分もあると思います。要は「比較しなくても認識はできる」ってこと。

この前最後に放置した「ゆるぎない自信を持つにはどうしたらいいか」。他人から認められるというのは手っ取り早く、認めてくれた相手が自分の中で重要な人物であればあるほどその自信は確固たるものになるでしょう。それは自分の体験からしてもそうなので、納得いきます。でも、今ここで考えたいのは、「他人から認められずして自信をもつ方法」です。私は、今までの習慣、経験など、自分の過去がものをいうのではないかと思いました。「本が好きで、幼いころから本を読みまくってきた自分」「中学で陸上をはじめて今でも続けている自分」私に関して言えば、例えば今あげたようなことがあります。具体的なことではなくても「あのとき負けて悔しかった」みたいな感情的なことまで考えたら、誰にでもたくさんありますよね。何かしらやってきたこと、思ったことがあって、そういうものの記憶が「私は私」を形作っているのかな、と思います。「自信」という言葉がなんだかしっくりこないので、「自覚」とか「自我」におきかえるとなんとなくわかる、ような…?

まったく知らない人たちの中に一人でいると、なんだかわからないけれど自分の存在がものすごく小さく感じる。所詮大衆の中の一人、みたいな。また、周りに誰もいなくて自分ひとりだけの時、なんとも言えない静けさを感じて、「ここに自分がいることは誰も知らないし、いなくても何も変わらない」なんて思うことがある。そういうときは、なんとなく自分が揺らいでいる感じがします。だけど私の場合、周りに誰もいなくてひとりでも、夢中になって陸上やってたり本を読んでたり音楽を聴いてたりすると、「これが私だ!」ってものすごく強く感じるんです。陸上なんかだったら「これが生きがいだ!」とかね。そういうときは陸上してる自分、本を読んでいる自分をものすごく意識するし、実感している。だけど、ソフトボールをしてたりご飯食べたりしているときにはそこまで強く感じない。何が違うかといえば、自分の中の重要度です。その行為が、本当に自分が欲していること、大切なものであればあるほど、意識する度合いが高くなるんです。それらがあると「これが私だ!」と思うことができる。誰が何といおうと、例えば陸上やってるときの自分が生き生きとしてるし「自分らしい」と感じることができる瞬間なんです。

まとめると、好きなこと、生き甲斐、そういうものを見つけて、それを行っているとき、そしてそれを意識しているときに、ゆるぎない自分像というものが生まれるのではないでしょうか。その自分像があるから「私は存在している」「これが私」という自信が生まれる。こんなところです。自己満足といってしまえばそれまでですが…。

一応書きたいことは書けました。もっとわかりやすく考えをまとめられるようになりたいです。

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