2012年2月5日日曜日

集中・青年心理学 アイデンティティの形成

1月28日・29日と2月4日・5日の2週間にわたって、青年心理学の集中講義が行われました。
単位がほしかったというのもありますが、単純に興味があったので土日をつぶして受講してみることに。先週は『青年心理学を学ぶことの意義』という導入のようなところからはいり、大きなテーマとしては『おとなになること』。今週は『劣等感』『アイデンティティ』『恋愛』『友人関係』をキーワードに、『アイデンティティの形成』が大きなテーマとして扱われました。今週のテーマの方がより身近で、ネタとしても新しいのでちょっとブログに書いてみようかなぁと思います。
基本的に授業中にtwitterでつぶやいたりレジュメの端っこに殴り書きしたことをもとに肉付けする感じで書けたらと思います。


まず、話の軸になるアイデンティティについて少し触れておきます。アイデンティティというのは『「自分とは何か」という問いに答えるものであり、自分の自分らしさを意識させるものである』とアメリカの心理学者・エリクソンは述べているそうです(高校の倫理の教科書より)。ここまでは私がイメージしていたことと大きく違いがなかったのですが、ひっかかったのは同じくエリクソンが提唱した『アイデンティティの感覚』。エリクソンはアイデンティティの感覚について、『内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力が、他者に対する自己の意味の不変性と連続性に合致する経験から生まれた自信』としています(レジュメより)。・・・ちょっと意味がわからないですね。笑
要はアイデンティティの感覚というのは自信だということのようです。まず『私は○○だ!』と思っている自分がいて、それを他者からも同じように認められなければ、アイデンティティの感覚とは言えない。
ここまでがだいたい習った内容なのですが、これはものすごく不安定な状況だなぁというのが率直な感想でした。自分で自分のことを○○だと思っていても、それだけではアイデンティティの感覚が得られないということは、他人がいなければ自分は自分だという自信が得られないということで。いくら自分で主張しても、それはアイデンティティの感覚を得るという観点から見ればまったく無駄になってしまうということです。自分が考えている「不変性のある自分(存在とか、個性とか)」は他人によって案外簡単に崩されてしまう。そんなにもろいものなのか・・・という驚きもあり、単純に自分が想像していた内容とは異なるのでなかなか納得しづらい面があります。

再び倫理の教科書やレジュメを引用しますが、アイデンティティの形成がうまくいかないと「自分がわからない」「他人との心理的距離がうまくとれない」といった事態がおきる、つまり『アイデンティティの拡散』という状況に陥るのだそうです。不安・焦り・無力感・孤独感etc.がわきあがってきて、心理的にはあまりよくない状態です。こうした不安を消すために自分の役割を探したり落ち着く場所を探したりする時期がいわゆる『(古典的)モラトリアム』の時期というわけです。(古典的)とつけたのは、最近『第3のモラトリアム』というものが溝上慎一(心理学者)によって提唱され、レジュメ上でも区別されていたのでこちらでもこのように書きました。
しかし、そもそも相手から認められるのが難しくて、認められないから不安になる。この不安の解消方法として授業中に考えたのは、他人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと。かなり極端な意見なので異論はあるでしょう。自分の中でも善し悪しがはっきりしているわけでもありません。しかし「不安を消す」ということのみを考えるならば、この方法は効果があるのではないでしょうか。そこで、どうやったらその自信をもつことができるのか、を考えたいのですが、これが結局思いつかないままで授業自体は終わってしまいました…。

もう少しゆっくり考えられるときに考えてみたいです。というか考えます。今回はこれでひと段落ということで…。

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