20日~21日にかけて、地元から高校の時の部活の後輩が家に泊まりにきてくれました。11月の推薦入試で県内の看護に合格が決まっているので、もう受験からは解放されていて時間があったそうで。笑 改めて合格おめでとう!私も推薦だったこともあり、直前期にはたまにアドバイスなんかもしてたので、決まってくれてほんとに嬉しいです(役に立ったかは別として。笑)。そしてわざわざ3時間半かけて電車乗り継いできてくれるような素敵な後輩がいて大変幸せでございまする。
まぁ大学以外は何にもないところなので、家で鍋やってしゃべって寝て起きてご飯食べて校内をぶらぶらしてご飯食べてまたしゃべって帰る、というゆるやかな日程。けっこう歩かせちゃったけど、楽しんでくれたみたいで良かったです。キムチ鍋の美味しさと粉クリの美味しさに感激してくれました。キムチ鍋美味しかったなー最後のチーズリゾットが良かった。あれは美味しい。笑
1つ下の代では推薦で決まったのが彼女だけなので、他の後輩の様子も教えてもらいました。かなり良さそうな子もいれば、ちょっと危ないんじゃないかなー的な子もいれば、私大の結果待ちの子もいれば、って感じで、もう1年も前の話なのか、とちょっとしみじみ…。前期まで今日を含めてあと4日なので、最後まで粘ってほしいですね。今年は私らの代の浪人してる人たちもきっと受かってくれるはずなので、一応春休みに予定されてるOB会を楽しみにしたいです。5月の総体や12月の走り納めで会えた人もいますが、まったく連絡とってない人もいるので久しぶりに西陸のみんなに会いたいです。女子には卒業してから1回も会ってないんじゃないかなぁ…帰省時期が合わなくてGWには会えなかったし他大と夏休みずれてるし。ずれてるメリットはあるけどデメリットもかなり大きいような。まぁその分楽しみが増えたと思えばいいかな?会えなかったら泣く。
1年なんてあっという間にすぎちゃって、でも1人暮らしで料理をさっさと作れるようになったり仕事の手際が多少は良くなったり、成長していることもあるわけで。あと少しでまた新しい後輩が入ってきて新しい人間関係ができていくので、少しでもいい先輩になれたらなーと思いますね。その前にテストやっつけないと。あーあーあー。笑
2012年2月22日水曜日
2012年2月8日水曜日
自分なりの答えを
内容は前回の記事の続きになります。某SNSでいくつか記事に対する反応をいただけたので、それに対する自分なりの答えを出してみました。どんなに小さくても、自分が書いたことに対して何かしら反応がくるのはうれしいものです。本当にありがとうございます。
まず回答というか、「これってこういうこと?」と聞かれたときにうまく答えられなかったので、それについてちょっと書きます。解釈といったほうがいいでしょうか。
記事の最後のほうで、「人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと」が不安の解消方法としてあるのではないか、というようなことを書きました。言い方によっては、「誰が何と言おうが自分が決めたことをこなす」ということになります。だけど、ここで「自分は100mが11秒台で走れる!誰が何と言っても走れる!」と考えて練習する、っていうのは、私の中では少し意味が違ってくるんですよね…。「練習をがんばっている自分」というのは、自信につながるかもしれません。技術的な話をしているわけではないので、その練習が有効かどうか、意味があるのかどうか、そのへんはこの際関係ないものとします。練習をすることより、練習している自分を自覚する・意識する・考える。この辺が「私は私だ」と思える瞬間ではないでしょうか。抽象的で分かりにくいですが、これが今私が出せる精一杯の答えですね…まだまだ考えが足りないです。
次に最後宙ぶらりんになってしまった「どうやったら自信をもつことができるのか」という話。これは完全に自分の経験に基づいて考えているので、異論はあるでしょうし納得できない面もあると思います。あくまでも「私はこう感じる」ということを書くので、そこはご承知ください。
上に書いた回答や、SNS内でやりとりをしていてなんとなく思ったのですが、私は「我思う、ゆえにわれあり」というデカルトの考えにとても共感しています。そもそもどういう考えかというと、
『自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。』(wikipediaより引用)
ということになります。とりあえず私は少なからずこの考えに基づいているという前提のもとで話を進めます。
まず、考えている「自分」は常に存在しているわけなので、それが他人に認められているかそうでないかは関係ないんです。つまり「自分」というのは、他人と比較しなければ認識できない、というものではない。もちろん周りと比較することで優劣がうまれ、好き嫌いがうまれ…という側面ももちろんあるので、他人と比較して認識される部分もあると思います。要は「比較しなくても認識はできる」ってこと。
この前最後に放置した「ゆるぎない自信を持つにはどうしたらいいか」。他人から認められるというのは手っ取り早く、認めてくれた相手が自分の中で重要な人物であればあるほどその自信は確固たるものになるでしょう。それは自分の体験からしてもそうなので、納得いきます。でも、今ここで考えたいのは、「他人から認められずして自信をもつ方法」です。私は、今までの習慣、経験など、自分の過去がものをいうのではないかと思いました。「本が好きで、幼いころから本を読みまくってきた自分」「中学で陸上をはじめて今でも続けている自分」私に関して言えば、例えば今あげたようなことがあります。具体的なことではなくても「あのとき負けて悔しかった」みたいな感情的なことまで考えたら、誰にでもたくさんありますよね。何かしらやってきたこと、思ったことがあって、そういうものの記憶が「私は私」を形作っているのかな、と思います。「自信」という言葉がなんだかしっくりこないので、「自覚」とか「自我」におきかえるとなんとなくわかる、ような…?
まったく知らない人たちの中に一人でいると、なんだかわからないけれど自分の存在がものすごく小さく感じる。所詮大衆の中の一人、みたいな。また、周りに誰もいなくて自分ひとりだけの時、なんとも言えない静けさを感じて、「ここに自分がいることは誰も知らないし、いなくても何も変わらない」なんて思うことがある。そういうときは、なんとなく自分が揺らいでいる感じがします。だけど私の場合、周りに誰もいなくてひとりでも、夢中になって陸上やってたり本を読んでたり音楽を聴いてたりすると、「これが私だ!」ってものすごく強く感じるんです。陸上なんかだったら「これが生きがいだ!」とかね。そういうときは陸上してる自分、本を読んでいる自分をものすごく意識するし、実感している。だけど、ソフトボールをしてたりご飯食べたりしているときにはそこまで強く感じない。何が違うかといえば、自分の中の重要度です。その行為が、本当に自分が欲していること、大切なものであればあるほど、意識する度合いが高くなるんです。それらがあると「これが私だ!」と思うことができる。誰が何といおうと、例えば陸上やってるときの自分が生き生きとしてるし「自分らしい」と感じることができる瞬間なんです。
まとめると、好きなこと、生き甲斐、そういうものを見つけて、それを行っているとき、そしてそれを意識しているときに、ゆるぎない自分像というものが生まれるのではないでしょうか。その自分像があるから「私は存在している」「これが私」という自信が生まれる。こんなところです。自己満足といってしまえばそれまでですが…。
一応書きたいことは書けました。もっとわかりやすく考えをまとめられるようになりたいです。
まず回答というか、「これってこういうこと?」と聞かれたときにうまく答えられなかったので、それについてちょっと書きます。解釈といったほうがいいでしょうか。
記事の最後のほうで、「人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと」が不安の解消方法としてあるのではないか、というようなことを書きました。言い方によっては、「誰が何と言おうが自分が決めたことをこなす」ということになります。だけど、ここで「自分は100mが11秒台で走れる!誰が何と言っても走れる!」と考えて練習する、っていうのは、私の中では少し意味が違ってくるんですよね…。「練習をがんばっている自分」というのは、自信につながるかもしれません。技術的な話をしているわけではないので、その練習が有効かどうか、意味があるのかどうか、そのへんはこの際関係ないものとします。練習をすることより、練習している自分を自覚する・意識する・考える。この辺が「私は私だ」と思える瞬間ではないでしょうか。抽象的で分かりにくいですが、これが今私が出せる精一杯の答えですね…まだまだ考えが足りないです。
次に最後宙ぶらりんになってしまった「どうやったら自信をもつことができるのか」という話。これは完全に自分の経験に基づいて考えているので、異論はあるでしょうし納得できない面もあると思います。あくまでも「私はこう感じる」ということを書くので、そこはご承知ください。
上に書いた回答や、SNS内でやりとりをしていてなんとなく思ったのですが、私は「我思う、ゆえにわれあり」というデカルトの考えにとても共感しています。そもそもどういう考えかというと、
『自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。』(wikipediaより引用)
ということになります。とりあえず私は少なからずこの考えに基づいているという前提のもとで話を進めます。
まず、考えている「自分」は常に存在しているわけなので、それが他人に認められているかそうでないかは関係ないんです。つまり「自分」というのは、他人と比較しなければ認識できない、というものではない。もちろん周りと比較することで優劣がうまれ、好き嫌いがうまれ…という側面ももちろんあるので、他人と比較して認識される部分もあると思います。要は「比較しなくても認識はできる」ってこと。
この前最後に放置した「ゆるぎない自信を持つにはどうしたらいいか」。他人から認められるというのは手っ取り早く、認めてくれた相手が自分の中で重要な人物であればあるほどその自信は確固たるものになるでしょう。それは自分の体験からしてもそうなので、納得いきます。でも、今ここで考えたいのは、「他人から認められずして自信をもつ方法」です。私は、今までの習慣、経験など、自分の過去がものをいうのではないかと思いました。「本が好きで、幼いころから本を読みまくってきた自分」「中学で陸上をはじめて今でも続けている自分」私に関して言えば、例えば今あげたようなことがあります。具体的なことではなくても「あのとき負けて悔しかった」みたいな感情的なことまで考えたら、誰にでもたくさんありますよね。何かしらやってきたこと、思ったことがあって、そういうものの記憶が「私は私」を形作っているのかな、と思います。「自信」という言葉がなんだかしっくりこないので、「自覚」とか「自我」におきかえるとなんとなくわかる、ような…?
まったく知らない人たちの中に一人でいると、なんだかわからないけれど自分の存在がものすごく小さく感じる。所詮大衆の中の一人、みたいな。また、周りに誰もいなくて自分ひとりだけの時、なんとも言えない静けさを感じて、「ここに自分がいることは誰も知らないし、いなくても何も変わらない」なんて思うことがある。そういうときは、なんとなく自分が揺らいでいる感じがします。だけど私の場合、周りに誰もいなくてひとりでも、夢中になって陸上やってたり本を読んでたり音楽を聴いてたりすると、「これが私だ!」ってものすごく強く感じるんです。陸上なんかだったら「これが生きがいだ!」とかね。そういうときは陸上してる自分、本を読んでいる自分をものすごく意識するし、実感している。だけど、ソフトボールをしてたりご飯食べたりしているときにはそこまで強く感じない。何が違うかといえば、自分の中の重要度です。その行為が、本当に自分が欲していること、大切なものであればあるほど、意識する度合いが高くなるんです。それらがあると「これが私だ!」と思うことができる。誰が何といおうと、例えば陸上やってるときの自分が生き生きとしてるし「自分らしい」と感じることができる瞬間なんです。
まとめると、好きなこと、生き甲斐、そういうものを見つけて、それを行っているとき、そしてそれを意識しているときに、ゆるぎない自分像というものが生まれるのではないでしょうか。その自分像があるから「私は存在している」「これが私」という自信が生まれる。こんなところです。自己満足といってしまえばそれまでですが…。
一応書きたいことは書けました。もっとわかりやすく考えをまとめられるようになりたいです。
2012年2月5日日曜日
集中・青年心理学 アイデンティティの形成
1月28日・29日と2月4日・5日の2週間にわたって、青年心理学の集中講義が行われました。
単位がほしかったというのもありますが、単純に興味があったので土日をつぶして受講してみることに。先週は『青年心理学を学ぶことの意義』という導入のようなところからはいり、大きなテーマとしては『おとなになること』。今週は『劣等感』『アイデンティティ』『恋愛』『友人関係』をキーワードに、『アイデンティティの形成』が大きなテーマとして扱われました。今週のテーマの方がより身近で、ネタとしても新しいのでちょっとブログに書いてみようかなぁと思います。
基本的に授業中にtwitterでつぶやいたりレジュメの端っこに殴り書きしたことをもとに肉付けする感じで書けたらと思います。
まず、話の軸になるアイデンティティについて少し触れておきます。アイデンティティというのは『「自分とは何か」という問いに答えるものであり、自分の自分らしさを意識させるものである』とアメリカの心理学者・エリクソンは述べているそうです(高校の倫理の教科書より)。ここまでは私がイメージしていたことと大きく違いがなかったのですが、ひっかかったのは同じくエリクソンが提唱した『アイデンティティの感覚』。エリクソンはアイデンティティの感覚について、『内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力が、他者に対する自己の意味の不変性と連続性に合致する経験から生まれた自信』としています(レジュメより)。・・・ちょっと意味がわからないですね。笑
要はアイデンティティの感覚というのは自信だということのようです。まず『私は○○だ!』と思っている自分がいて、それを他者からも同じように認められなければ、アイデンティティの感覚とは言えない。
ここまでがだいたい習った内容なのですが、これはものすごく不安定な状況だなぁというのが率直な感想でした。自分で自分のことを○○だと思っていても、それだけではアイデンティティの感覚が得られないということは、他人がいなければ自分は自分だという自信が得られないということで。いくら自分で主張しても、それはアイデンティティの感覚を得るという観点から見ればまったく無駄になってしまうということです。自分が考えている「不変性のある自分(存在とか、個性とか)」は他人によって案外簡単に崩されてしまう。そんなにもろいものなのか・・・という驚きもあり、単純に自分が想像していた内容とは異なるのでなかなか納得しづらい面があります。
再び倫理の教科書やレジュメを引用しますが、アイデンティティの形成がうまくいかないと「自分がわからない」「他人との心理的距離がうまくとれない」といった事態がおきる、つまり『アイデンティティの拡散』という状況に陥るのだそうです。不安・焦り・無力感・孤独感etc.がわきあがってきて、心理的にはあまりよくない状態です。こうした不安を消すために自分の役割を探したり落ち着く場所を探したりする時期がいわゆる『(古典的)モラトリアム』の時期というわけです。(古典的)とつけたのは、最近『第3のモラトリアム』というものが溝上慎一(心理学者)によって提唱され、レジュメ上でも区別されていたのでこちらでもこのように書きました。
しかし、そもそも相手から認められるのが難しくて、認められないから不安になる。この不安の解消方法として授業中に考えたのは、他人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと。かなり極端な意見なので異論はあるでしょう。自分の中でも善し悪しがはっきりしているわけでもありません。しかし「不安を消す」ということのみを考えるならば、この方法は効果があるのではないでしょうか。そこで、どうやったらその自信をもつことができるのか、を考えたいのですが、これが結局思いつかないままで授業自体は終わってしまいました…。
もう少しゆっくり考えられるときに考えてみたいです。というか考えます。今回はこれでひと段落ということで…。
単位がほしかったというのもありますが、単純に興味があったので土日をつぶして受講してみることに。先週は『青年心理学を学ぶことの意義』という導入のようなところからはいり、大きなテーマとしては『おとなになること』。今週は『劣等感』『アイデンティティ』『恋愛』『友人関係』をキーワードに、『アイデンティティの形成』が大きなテーマとして扱われました。今週のテーマの方がより身近で、ネタとしても新しいのでちょっとブログに書いてみようかなぁと思います。
基本的に授業中にtwitterでつぶやいたりレジュメの端っこに殴り書きしたことをもとに肉付けする感じで書けたらと思います。
まず、話の軸になるアイデンティティについて少し触れておきます。アイデンティティというのは『「自分とは何か」という問いに答えるものであり、自分の自分らしさを意識させるものである』とアメリカの心理学者・エリクソンは述べているそうです(高校の倫理の教科書より)。ここまでは私がイメージしていたことと大きく違いがなかったのですが、ひっかかったのは同じくエリクソンが提唱した『アイデンティティの感覚』。エリクソンはアイデンティティの感覚について、『内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力が、他者に対する自己の意味の不変性と連続性に合致する経験から生まれた自信』としています(レジュメより)。・・・ちょっと意味がわからないですね。笑
要はアイデンティティの感覚というのは自信だということのようです。まず『私は○○だ!』と思っている自分がいて、それを他者からも同じように認められなければ、アイデンティティの感覚とは言えない。
ここまでがだいたい習った内容なのですが、これはものすごく不安定な状況だなぁというのが率直な感想でした。自分で自分のことを○○だと思っていても、それだけではアイデンティティの感覚が得られないということは、他人がいなければ自分は自分だという自信が得られないということで。いくら自分で主張しても、それはアイデンティティの感覚を得るという観点から見ればまったく無駄になってしまうということです。自分が考えている「不変性のある自分(存在とか、個性とか)」は他人によって案外簡単に崩されてしまう。そんなにもろいものなのか・・・という驚きもあり、単純に自分が想像していた内容とは異なるのでなかなか納得しづらい面があります。
再び倫理の教科書やレジュメを引用しますが、アイデンティティの形成がうまくいかないと「自分がわからない」「他人との心理的距離がうまくとれない」といった事態がおきる、つまり『アイデンティティの拡散』という状況に陥るのだそうです。不安・焦り・無力感・孤独感etc.がわきあがってきて、心理的にはあまりよくない状態です。こうした不安を消すために自分の役割を探したり落ち着く場所を探したりする時期がいわゆる『(古典的)モラトリアム』の時期というわけです。(古典的)とつけたのは、最近『第3のモラトリアム』というものが溝上慎一(心理学者)によって提唱され、レジュメ上でも区別されていたのでこちらでもこのように書きました。
しかし、そもそも相手から認められるのが難しくて、認められないから不安になる。この不安の解消方法として授業中に考えたのは、他人からどう思われようが自分の中でこれだと言い切れるものをもつこと。かなり極端な意見なので異論はあるでしょう。自分の中でも善し悪しがはっきりしているわけでもありません。しかし「不安を消す」ということのみを考えるならば、この方法は効果があるのではないでしょうか。そこで、どうやったらその自信をもつことができるのか、を考えたいのですが、これが結局思いつかないままで授業自体は終わってしまいました…。
もう少しゆっくり考えられるときに考えてみたいです。というか考えます。今回はこれでひと段落ということで…。
2012年2月2日木曜日
「わからない」こと
どーもこんにちは。昨日は寝てたら1日終わってて2、3限行けず5限も寝過ごしたカスです。泣
おまけに起きた時間を考えると練習も行けないというひどさ。これはひどい。どうしてこうなった。
まぁ取りあえず今日の全休を利用して英語と統計を少しくらい進めて、昨日のひどさを少しでも取り戻したい所存であります。口先だけにならないようにしたいです、本当に。
最近冬のせいなのか、気分が暗くなるというかいろんなことを考え込んでしまいがちな気がします。プラスの方向に考えるのならまだいいのですが、悲観的になってしまうことが多い。特に1人でいるとそうなりがちなので、もっぱら同好会の人といるんですけどね。おまけに考え込んで答えが見つからなくてさらに気分が沈むという悪循環もある。
そんなとき誰かがそばにいてくれるのは本当に心が落ち着くし、それが仲がいい人であればあるほど居心地がいいです。まぁこれは季節に関係なくそうだと思いますが。笑
そうはいってもいろんなことを考え込むことが悪いことだとは考えていません。自分がどう思ったのか、どう感じたのか、どう考えているのかを、言葉にしたり、文字にあらわしたりするのは良いと思うのです。感情や思考のみならず、「わからない」ということは人間にとってものすごく不安な要素です。(ちょっと話はそれますが、私自身、旅行などでスケジュールがわからないとものすごく不安になってしまうので、誰かについていきっぱなしというのは苦手です…。)
不安なことがあると、人間はなにか対象をみつけて恐れや不安感をそれに当てはめようとするらしいのです。例を挙げるなら、ナチス・ドイツがユダヤ人を差別して虐げたのがそれです。社会が混乱していて先が見えない、どうしたらいいかわからない。そんな不安をユダヤ人にぶつけたのだとかなんとか…心理学で習ったのですが、少し内容があいまいなのであまり深く言及するのは避けたいと思います。勉強しなおさないとね。
ものすごく脱線した感が否めませんが、つまり何が言いたいかというと、「わからない」ことがあるとこころもとない。いろいろと考えることでそれが解消できるなら、とことん悩めばいいじゃないか、ということ。よくわからないけどもやもやするとき、「どうして?」「いつから?」って考えてみると意外とシンプルな原因だったなんてこともあると思います。その原因と向き合うのはつらいかもしれないけれど、1度そこで向き合ってみる。面倒で先延ばしにしていることなのか、人間関係なのか、個人的なトラウマや悩みだったのか。たぶん、敢えて目をそらしていることだってあるのでしょう。それは防衛規制の中の抑圧にあたるんでしょうか、まぁ人間なら仕方ないってことです。原因が特定できれば、ある程度の道筋は見えてくると思うのです。そこから解決させるかどうかは個人次第。その過程でまた考えたり、誰かに話してみたりするのはけっこう効果的だと思います。迷惑をかけるんじゃないかって思ったり、自分の考えを話すのが恥ずかしいって思ったり、そういうのはあると思うんですけど、自分が思っている以上に周りの人は助けてくれる。一人じゃどうしようもないことはあるので、誰かに助けを求めるのは普通のことなんじゃないですかね。元来おせっかいな性格なので、そんなときに誰かから頼られるような存在になりたいなぁと思っています。こういうのもあってカウンセラーになりたいって思い続けてきたという節もありますね…。
少なくとも、私の周りには助けてくれる人がたくさんいて、いつもいつも感謝しっぱなしです。恩返しとか堅いことを言うつもりはありませんが、いつか助けてもらった分をどこかで還元したいです。
おまけに起きた時間を考えると練習も行けないというひどさ。これはひどい。どうしてこうなった。
まぁ取りあえず今日の全休を利用して英語と統計を少しくらい進めて、昨日のひどさを少しでも取り戻したい所存であります。口先だけにならないようにしたいです、本当に。
最近冬のせいなのか、気分が暗くなるというかいろんなことを考え込んでしまいがちな気がします。プラスの方向に考えるのならまだいいのですが、悲観的になってしまうことが多い。特に1人でいるとそうなりがちなので、もっぱら同好会の人といるんですけどね。おまけに考え込んで答えが見つからなくてさらに気分が沈むという悪循環もある。
そんなとき誰かがそばにいてくれるのは本当に心が落ち着くし、それが仲がいい人であればあるほど居心地がいいです。まぁこれは季節に関係なくそうだと思いますが。笑
そうはいってもいろんなことを考え込むことが悪いことだとは考えていません。自分がどう思ったのか、どう感じたのか、どう考えているのかを、言葉にしたり、文字にあらわしたりするのは良いと思うのです。感情や思考のみならず、「わからない」ということは人間にとってものすごく不安な要素です。(ちょっと話はそれますが、私自身、旅行などでスケジュールがわからないとものすごく不安になってしまうので、誰かについていきっぱなしというのは苦手です…。)
不安なことがあると、人間はなにか対象をみつけて恐れや不安感をそれに当てはめようとするらしいのです。例を挙げるなら、ナチス・ドイツがユダヤ人を差別して虐げたのがそれです。社会が混乱していて先が見えない、どうしたらいいかわからない。そんな不安をユダヤ人にぶつけたのだとかなんとか…心理学で習ったのですが、少し内容があいまいなのであまり深く言及するのは避けたいと思います。勉強しなおさないとね。
ものすごく脱線した感が否めませんが、つまり何が言いたいかというと、「わからない」ことがあるとこころもとない。いろいろと考えることでそれが解消できるなら、とことん悩めばいいじゃないか、ということ。よくわからないけどもやもやするとき、「どうして?」「いつから?」って考えてみると意外とシンプルな原因だったなんてこともあると思います。その原因と向き合うのはつらいかもしれないけれど、1度そこで向き合ってみる。面倒で先延ばしにしていることなのか、人間関係なのか、個人的なトラウマや悩みだったのか。たぶん、敢えて目をそらしていることだってあるのでしょう。それは防衛規制の中の抑圧にあたるんでしょうか、まぁ人間なら仕方ないってことです。原因が特定できれば、ある程度の道筋は見えてくると思うのです。そこから解決させるかどうかは個人次第。その過程でまた考えたり、誰かに話してみたりするのはけっこう効果的だと思います。迷惑をかけるんじゃないかって思ったり、自分の考えを話すのが恥ずかしいって思ったり、そういうのはあると思うんですけど、自分が思っている以上に周りの人は助けてくれる。一人じゃどうしようもないことはあるので、誰かに助けを求めるのは普通のことなんじゃないですかね。元来おせっかいな性格なので、そんなときに誰かから頼られるような存在になりたいなぁと思っています。こういうのもあってカウンセラーになりたいって思い続けてきたという節もありますね…。
少なくとも、私の周りには助けてくれる人がたくさんいて、いつもいつも感謝しっぱなしです。恩返しとか堅いことを言うつもりはありませんが、いつか助けてもらった分をどこかで還元したいです。
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